2017年8月11日金曜日

はじめまして。kstf2017。

こんばんは。

劇団洗濯氣の演劇祭の作品の演出・脚本を務めています渚ひろむと申します。


脚本演出は今回で3回目、演劇祭は初というど素人であります。周りの参加者様が眩しいです…。


さて、好きに語ります。

多分読むのしんどいです。浅くて重い、浅学なお話です。

しかし、このように演出として立てるのはもうそんなに存在しないことが予測されます。だから、この場を借りて言い残すことにしました。

思っていることや、叶えばいいなーくらいのお願いです。


最近生きてきて思うことです。

「きれいごと」って世の中様に嫌われ者さんです。どうしてなんでしょう。きれいなものというものは、本来は皆に好かれているものではと思います。裏切られたから、綺麗を貶す環境に元々育ったから、傷つくのが怖いから、馬鹿にされたかないから。ハナから綺麗を信じずにどうせ汚いと鼻で笑うのだと考えています。

綺麗を貶す自分というものはとても楽です。なぜなら、全てを悟ったような達観者でいられるからだと思います。


私はいくら馬鹿を見ても綺麗ごとを信じたい。でも決して、汚いものを綺麗に見ようとするのではないのです。

どうか、綺麗を見出して掬い出したい。


演出では、俳優本人が汚いと思っている部分を引き出してみたい。それは他人から見たらとても素敵なものであることがあるからです。

無理にとは言わない。嫌ならいいのです。ただ、勇気を持って、私と自分を信じて晒してくれるなら、精一杯綺麗に盛り付ける。

私は永遠に、素敵で魅力的だと信じています。


芝居は無理をしてやるものではないと思う。これは何をやるにしても言える。一瞬たりとも無理をしてはいけないとは言わない。しかしながら、無理を超えてやるものではない。それは雑巾みたいになっても尚やり続ける勤勉な自分に酔っているだけです。そんなのは称賛されるべきものではないです。


どうか、傷つきすぎてボロボロになるまでやらないでほしい。自分の思考の海に沈んでそのまま帰り道がわからなくなるなんてことはやめてほしい。息継ぎが上手くできるようになるまで、深い海で泳がないでほしい。


世の中が「芸術」というものにもっと見出せたらよいのにと思います。

いつか見出してもらうために、僕らは作品を作り続ける。

いや、語弊があったかもしれません。見出して「もらう」は他人の力本位ですね。やはり、自ら世の中のスポットライトにあたりに行くという行動が必要かもしれません。


今回洗濯氣は寄せ集め初メンツ、主要な役2人が演劇未経験であります。それでもできることは沢山あります。奴らは勝手です。自由すぎる部員紹介をしました。なんて奴らだ。

でもまぁ、私は沢山彼らに教えてもらいました。彼らのことも、彼らに映る私のことすらも。それって演劇自体に可能性に似た未知なる魅力だと思うのです。自分と他者を見つめ、他者を想像するような感じです。


言ってる事は無茶苦茶なのは分かっています、でも折角最初で最後だから言いたいから言ってみました。


ここまで読んでくださったあなた。ぜひ友達になってください。本当にありがとうございます。


京都学生演劇祭2017。そして参加者、委員の方、お客様の皆様。はじめまして。


劇団洗濯氣「ほしのひのもと」をよろしくお願いいたします。


それでは、劇団洗濯氣14人、いってきます。



2017演劇祭。京都にて、学生のあつい舞台が始まります。


劇団洗濯氣 渚ひろむ

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